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建築家・池田武邦

Takekuni IKEDA

経歴

Biography

1924年静岡県生まれ。「矢矧」測的長として沖縄特攻へと出撃。米軍に撃沈されるが奇跡的に生還。終戦後、父親の勧めで東京帝国大学建築学科入学。卒業後山下寿郎設計事務所で数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年、日本設計事務所を創立。霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱き、1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1994年会長辞任後、池田研究室を立ち上げ21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。

池田武邦と戦争

WW2 and Takekuni IKEDA

 海軍士官であった父・武義を追うようにして、16歳で江田島海軍学校に第72期生として入校した池田武邦は、軽巡洋艦・矢矧の若き士官として、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻の三大海戦に参加した。矢矧の進水式にも立ち会っていた池田は、結果的に矢矧の誕生から沈没までを見届けることとなる。若くして昇進し、年上の部下を多数抱えた池田は1945年4月7日、21歳の若さで矢矧の測的長として、沖縄特攻へ出撃。枕崎の沖合、坊ノ岬沖海戦となり、矢矧は敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて14時05分に沈没。大和も眼前で轟沈した。池田は、4月の冷たい海で数時間、敵機の攻撃を受けながら、重油まみれで漂流した。立ち泳ぎを続ける池田の脳裏を過ぎったのは、叔父・山本拙郎が設計した藤沢にある実家の畳のあたたかさだったという。数時間後、後続の駆逐艦・冬月により救助され、九死に一生を得て佐世保海軍病院へ生還する。

 その後乗る船を失った池田は、広島・大竹潜水学校の教官に着任し、特攻潜水艇の乗組員の指導を通じ、若者・子どもたちの命・将来に思いを馳せるようになる。8月6日、広島原爆。爆心地から30kmのところにいた池田も現地に向かい、惨憺たる状況の中、重傷者の救護、遺体の収容にあたった。

 8月15日、終戦の報を大竹で聞き、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたと当時の気持ちを回想する。

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軽巡洋艦「矢矧」 - The Battleship "Yahagi"

池田武邦と超高層

Skyscraper and Takekuni IKEDA

終戦後、父の勧めで東京帝国大学(現・東京大学)建築学科に入学した池田は、卒業後、山下寿郎設計事務所で数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年から、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。当時の東京は百尺制限と呼ばれる建築物の高さ規制によって、地上部はスモッグに埋もれた非人間的環境であった。そんな中で霞ヶ関ビルは、超高層という手段によって足元に人間性回復のための広場をつくることを真の目的として計画されたのであった。

1967年、当時の山下寿郎事務所の社長・野崎謙三と、個人名義の作品の是非をめぐって対立し、退社。日本設計事務所を創立。その際、山下事務所の半数が池田を追って退社した。チーフとして関わった霞が関ビル(36階建)、京王プラザホテル(47階建)、新宿三井ビル(55階建)が次々と完成する。中でも新宿三井ビルの足元に配された「55ひろば(現・55 HIROBA)」は、低層部に力が回りきらなかった霞が関ビルでの反省を大いに生かしてデザインされた珠玉の空間で、当時の建築史家から、超高層と足元周りの模範解答と称賛された。

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霞ヶ関ビルディング - Kasumigaseki Building(1968)

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新宿三井ビルディングと55HIROBA - 55 HIROBA in Shinjuku Mitsui Building(1974)

池田武邦と環境

Nature and Takekuni IKEDA

 池田は新宿三井ビルディングに本社を構えることに拘りを見せ、地上50階にオフィスを構えていた。しかしある日帰ろうと夕方外に出ると、一面が吹雪き、雪景色となっていた。完全空調された地上200mにいた池田は、外に出るまでそのことに気づいていなかった。肌にふと落ちた雪の感触が心地よい。ちょっとした気象の変化も見逃さなかったはずの海の男にとって、このことは大きな衝撃であった。

 同時期、レイチェルカーソン「沈黙の春」やローマクラブ「成長の限界」が発表されており、技術偏重の建築界に対する疑問が頭を擡げる。最先端の技術・人工的な環境は、自然の一部であるべき人間が目指すべきものではないと悟った池田は、その後自然への感性を取り戻すことを設計テーマに掲げるようになり、「呼吸する超高層(虎ノ門ツインビル・1988年)」「蚯蚓と共生するキャンパス(都立大学キャンパス・1991年)」などをデザインしていく。

 中でも盟友・神近義邦と協働した「長崎オランダ 村(1983年)」「ハウステンボス(1991年)」は、水際線を巧みに生かし、自然護岸を用いて再生し、また手厚い浄化設備を有する環境共生型のまちづくりのモデルとして設計された先進的な試みであった。池田はオランダ村・ハウステンボスの設計を経てオランダと江戸の考え方に共通性を見出し、近代化の過程でないがしろにしてきた「自然を畏れる態度」「自然への畏敬」を取り戻す必要があると強く訴えかけている。

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ハウステンボス - Huis Ten Bosch(1991)

池田武邦と大村湾

Omura-bay and Takekuni IKEDA

 池田と大村湾のつながりは、戦時まで遡る。坊ノ岬沖海戦からの生還後、佐世保海軍病院で療養していた池田は、散歩に出た。そこで大村湾に山桜の咲く風景を目の当たりにして、「まさに国破れて山河ありを実感した」という。平和な時代が来たらこういうところに住みたい、と思ったのだった。

 その後建築の世界に入りすっかり大村湾のことは忘れていたが、長崎出身の女性の入社面接がきっかけで懐かしく思い訪ねたところ、後に「長崎オランダ村」「ハウステンボス」で事業をともにする神近義邦との出会いがあり、そこから西彼町の小さな岬の先端の土地を手に入れることになったのだった。その土地こそが、今の邦久庵の建つ「琵琶ノ首鼻」である。

 池田は1975年以降、土地にコンテナユニットを置き、セカンドハウスとして琵琶ノ首・大村湾での休暇を楽しんだ。しかし周辺で進んだ市街化・工場開発は大村湾に汚染を垂れ流し、一時期「大村湾が黄色かった」と池田が嘆き漏らすほどの環境悪化が進む。戦時中の美しかった大村湾の記憶は池田の環境共生思想へとかたちを変え、邦久庵の裏手には微生物が共生する自然石護岸を設え、オランダ村では湾の地形を壊さず海からの目線で施設を配し、ハウステンボスではゴミ拾いと植樹からスタートするという、環境の時代を先読みしたデザインを生み出していった。2001年、終の住処として建てた邦久庵も、何よりも彼の愛する大村湾ファーストでデザインされていると言ってよい。邦久庵からは様々な角度で大村湾を望むことができる。

 大村湾は琵琶湖の半分くらいの大きさの内海で、波が極めて穏やか。それでいて本物の海で、太古より湾から出られないというクジラ(スナメリ)が住んでいる。塩分濃度も低く、海際に暮らすにはうってつけの「世界のどこにもない海だ」と池田は言う。そして大村湾を辿っていくと、針尾瀬戸から外洋へ出て、やがて日本海、東シナ海、太平洋とつながる。池田にとって海は、鎮魂の風景でもあるのである。

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邦久庵での池田武邦さん - Takekuni IKEDA on the Deck

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